寺院一覧




京都検定クイズに出題されている寺院一覧です。(50音順)※随時アップデート

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)

神社が鎮座する男山全体が境内となっている京都府八幡市にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、平安京の裏鬼門を守護し、伊勢神宮に次ぐ宗廟(そうびょう)として、皇室からも崇敬を集めてきた寺院。
※宗廟(そうびょう)とは、日本では一般的に皇室の先祖を祀る場所を意味する。
※裏鬼門(うらきもん)とは、風水や家相において不吉とされる方角のひとつで、鬼門(北東)の反対側、南西の方角を指す。

引接寺(いんじょうじ)

京都市上京区閻魔前町にある引接寺(いんじょうじ)は、小野篁(おののたかむら)が閻魔大王から「精霊迎えの法」を授かり、その根本道場として閻魔法王を安置する祠(ほこら)を建立したことが始まりで、その後、定覚上人(じょうかくしょうにん)が1017年(寛仁元年)開山したとされている寺院。本尊の「閻魔法王像」は高さ約2.4mの迫力ある像で、左右には司命(しみょう)と司録(しろく)が従っている。かつて京都の三大埋葬地(葬送地)の一つである「蓮台野(れんだいの)」の入口に位置することから、死者をあの世へ送る場所として、お盆の時期には多くの人が訪れる。毎年5月には京都三大念仏狂言の一つ「千本ゑんま堂大念仏狂言」が行われる。
※京の三大埋葬地は、「鳥辺野(とりべの、東山)」、「化野(あだしの、嵐山北西)」、「蓮台野(れんだいの、船岡山西側)で、平安時代から死者の葬送(特に風葬)に使われた。

愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)

京都市右京区嵐山の奥にある愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)は、奈良時代の766年(天平神護2年)に創建された古刹(こさつ、歴史が古い寺院のこと)。度重なる災害や荒廃を経て、1922年に現在の嵯峨の地に移築・再興された。その後、台風被害で荒廃したが、彫刻家の西村公朝氏が住職となり、1980年からの復興事業で現在の姿になった。鎌倉時代に作られた国の重要文化財に指定されている本堂には「慈面悲面の千手観音」が祀られている。左右非対称のまなざしを持つ千手観音は、仏の慈悲「優しさ(慈面)」と「厳しさ(悲面)」の二面性を表現している。一般の参拝者によって彫られた個性的な表情をした1200体の「千二百羅漢」も見どころ。

乙訓寺(おとくにでら)

京都府長岡京市にある乙訓寺(おとくにでら)は、推古天皇の命により聖徳太子が開創したと伝えられる乙訓地方最古の寺院。784年(延暦3年)に桓武天皇が長岡京に遷都した際に、乙訓寺は京内七大寺の筆頭として大増築された。長岡京遷都に際し、藤原種継暗殺事件に連座したとして桓武天皇が弟・早良親王(さわらのみこ)を淡路へ流す前に幽閉した場所としても有名な寺院。また、空海が乙訓寺の別当であったときに、唐から帰国した最澄が初めて空海を訪ねた場所でもある。

鞍馬寺(くらまでら)

鞍馬山に住む大天狗(おおてんぐ)が源義経(牛若丸)に剣術を教えたという伝説「鞍馬天狗」で知られる鞍馬山の中腹に位置する鞍馬寺(くらまでら)は、鞍馬弘教の総本山。鞍馬寺の山門近くには由岐神社(ゆきじんじゃ)があり、毎年10月22日に行われる京都三大奇祭のひとつ「鞍馬の火祭り」で知られている。また、毎年4月中旬に8日間にわたって花供養(はなくよう)が行われ、本尊である尊天への感謝を込めて、花、茶、歌舞音曲などが奉納される。

華厳寺(けごんじ)

1723年(享保8年)に創建された京都市西京区にある臨済宗の寺院・華厳寺(けごんじ、通称:鈴虫寺)は、その名前の由来の通り、5,000匹から10,000匹の鈴虫が一年中鳴き続けていると言われる。また、わらじを履いたお地蔵様「幸福地蔵」は、ひとつだけ願いを叶えてくれるという。僧侶によるユーモアあふれる説法「鈴虫説法」も人気がある。

建仁寺(けんにんじ)

臨済宗の大本山で京都五山第三位の建仁寺(けんにんじ)は、1202年(建仁2年)に栄西禅師によって開創された京都最古の禅寺。俵屋宗達の「風神雷神図屏風」や、法堂の天井に描かれた小泉淳作画伯の「双龍図」などが有名。
※京都五山は、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の五寺院を指す。

高山寺(こうさんじ)

京都市右京区にある高山寺(こうさんじ)は、世界遺産にも登録されている古刹(こさつ、=古い寺のこと)で、栄西禅師が持ち帰った茶の種を明恵上人が育てたことから、日本で初めてお茶が作られた場所として知られている。動物たちが擬人化されたユーモラスな姿で描かれている国宝「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)」が有名。

高台寺(こうだいじ)

京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の高台寺(こうだいじ)は、豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)が秀吉の菩提を弔うために建立した寺院で、創建当初からの仏堂「開山堂」が残っている。北政所が眠る「霊屋(おたまや)」には、高台寺蒔絵(まきえ)と呼ばれる豪華な蒔絵装飾が施されている。龍が臥せている姿を連想させる廊下「臥龍廊(がりゅうろう)」から眺める庭園が絶景のスポット。

革堂(こうどう)

京都市中京区にある革堂(こうどう)は、1004年(寛弘元年)に行円上人(ぎょうえん)によって創建された天台宗の尼寺。行円上人が狩人だった頃、子鹿を身ごもった母鹿を射止めてしまった悲劇から、殺生を悔い改め、その母鹿の革をまとって仏の教えを説き始めたことから「革堂」と呼ばれるようになった。毎年8月に公開される若い女性の幽霊を描いた「幽霊絵馬」が保存されている宝物館や、都七福神の一人・寿老人を祀る「寿老人神堂」がある。創建当初は一条大路にあったとされているが、戦乱や火災で何度も焼失し、約300年前に現在の場所に移された。現在の本堂は1815年(文化十二年)に建てられたもので、本尊は行円上人が自ら彫ったとされる「千手観音像」が祀られている。

広隆寺(こうりゅうじ)

京都市右京区にある広隆寺(こうりゅうじ)は、603年(推古天皇11年)渡来人・秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺。「木造弥勒菩薩半跏思惟像(もくぞうみろくぼさつはんかしゅいぞう、一般的に「宝冠弥勒(ほうかんみろく)」は国宝第1号で、創建当時の本尊と伝えられる。
※京都三大奇祭の「牛祭」は、毎年10月12日夜(旧暦9月12日)に開催されていたが、今現在、諸事情により長期にわたり休止中。

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)

浄土宗七大本山のひとつ、京都市左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、1175年(承安5年)に法然上人が比叡山を下りて初めて草庵を結んだ浄土宗最初の寺院として重要な場所。また、幕末に会津藩主・松平容保が京都守護職としてここを本陣とし、新選組が誕生した地としても知られる。
※浄土宗七大本山とは、増上寺(東京)、金戒光明寺、知恩寺、清浄華院(京都)、善導寺(福岡)、光明寺(神奈川)、善光寺大本願(長野)を指す。そして知恩院(京都)が総本山としての格式を持つ。

金蔵寺(こんぞうじ)

京都西山の小塩山の中腹に位置する金蔵寺(こんぞうじ)は、718年(養老2年)に元正天皇(げんしょうてんのう)の勅願で創建されたと伝えられる天台宗の寺院。応仁の乱で焼失したが、江戸時代に桂昌院によって再建された。堂宇(どうう)が建ち並ぶは山腹の斜面は、京都市街を一望できる絶景スポットで、特に紅葉の季節は多くの人が訪れる。
※堂宇とは、仏教寺院の主要な建物を指すことが多く、金堂や本堂など四方に屋根が張り出した建物のこと。

西芳寺(さいほうじ)

奈良時代に行基(ぎょうき)によって開創されたと伝わる京都市西京区にある臨済宗の寺院・西芳寺(さいほうじ)は、境内一面が約120種類もの苔で覆われていることから「苔寺(こけでら)」として親しまれている。室町時代の禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)によって作庭されたと伝わる美しい庭園が見どころ。世界文化遺産にも登録されている。

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)

京都市東山区にある天台宗の寺院・三十三間堂は、正式名称を蓮華王院(れんげおういん)といい、本堂の内陣の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれる。正月の伝統行事「通し矢」でも有名で、弓の名手たちが本堂の縁から矢を射る姿は、新春の風物詩として広く知られている。

三千院(さんぜんいん)

京都市左京区大原にある天台宗の三千院(さんぜんいん)は、延暦年間(782〜806年)に最澄が比叡山の東塔南谷に一宇を建立したのが起源とされる寺院。美しい苔の庭園「有清園(ゆうせいえん)」や「聚碧園(しゅうへきえん)」、また、1148年(久安4年)に大原に創建された往生極楽院(おうじょうごくらくいん)に安置されている国宝「阿弥陀三尊像」が見どころ。往生極楽院と三千院は元々は別の寺院であったが、明治時代に三千院が大原に移転した際に境内に取り込まれた。
※門跡寺院とは、皇室一門や公家が出家して住職を務める寺院のことで、皇室と関わりのある格式高い寺院をいう。京都五箇室門跡は、妙法院門跡、青蓮院門跡、曼殊院門跡、毘沙門堂門跡と三千院門跡の天台宗五寺を指す。

三宝院(さんぽういん)

三宝院(さんぽういん)は、醍醐寺の塔頭(たっちゅう)で本坊的(中心的)な役割を担う寺院。1115年(永久3年)に醍醐寺第14世座主・勝覚僧正によって創建されたが応仁の乱で焼失。後に豊臣秀吉の援助を受けて再興した。「醍醐の花見」に際して秀吉自ら設計したとされる庭園「三宝院庭園」や寝殿造りの様式を取り入れた桃山時代の代表的な建築物「表書院」が見どころ。
※塔頭(たっちゅう)とは、大きな寺院の敷地内にある小規模な寺院や庵のこと。

慈照寺(じしょうじ)

銀閣寺として知られる京都市左京区にある臨済宗相国寺派の慈照寺(じしょうじ)は、室町幕府8代将軍・足利義政が造営した山荘「東山殿」を義政の死後に禅寺に改めた、東山文化を代表する寺院のひとつ。現存する最古の書院造の部屋「同仁斎(どうじんさい)」は、四畳半の足利義政の書斎(書院)で、書院造りの初期の代表的な例とされている。

実相院(じっそういん)

京都市左京区にある実相院(じっそういん)は、鎌倉時代の1229年(寛喜元年)に創建された、摂関家や皇族が代々の住職を務めてきた門跡寺院。応仁の乱の戦火を避けるために現在の岩倉へ移転したため「岩倉門跡」とも呼ばれている。趣が異なる池泉回遊式の「山水庭園」と「枯山水庭園」や、新緑や紅葉が客殿の床板に映り込む幻想的な光景の「床みどり(初夏)」「床もみじ(秋)」が大人気。また、寺内には狩野派によって描かれた襖絵が多く残されており、芸術的な価値も高く評価されている。

志明院(しみょういん)

京都市北区雲ケ畑、鴨川の源流に位置する志明院(しみょういん)は、正式名称を岩屋山金光峯寺(いわやさん きんこうほうじ)といい、829年(天長6年)に弘法大師・空海が鴨川の水源地を守り祈願するために再興した寺院。空海によって彫られたと伝わる日本最古の不動明王像がある。歌舞伎十八番「鳴神」の舞台として有名。

寂光院(じゃっこういん)

京都市左京区大原にある寂光院(じゃっこういん)は、594年(推古2年)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために創建したと伝えられる天台宗の尼寺。平清盛の娘・建礼門院(けんれんもんいん)は、壇ノ浦の戦いで我が子の安徳天皇と共に海に身を投げたが、助けられ京へ送還された。その後、安徳天皇や一族の菩提を弔うために出家し、生涯を寂光院で過ごした。

酬恩庵(しゅうおんあん)

アニメ「一休さん」にも登場する京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん、一休寺)は、鎌倉時代に禅の道場として創建された妙勝寺を一休宗純(いっきゅうそうじゅん)が室町時代に再興し、晩年を過ごした寺。代々の住職が作る「一休寺納豆」という珍しい納豆は、お土産としても人気があるアニメ「一休さん」にも登場する京田辺市(きょうたなべし)の酬恩庵(しゅうおんあん、通称・一休寺)は、一休さんこと一休宗純(いっきゅうそうじゅん)が晩年を過ごした寺。1394年、後小松天皇の皇子として生まれ、安国寺で一休という名前で修行を始めた。その後、大徳寺で修行を積み、臨済宗大徳寺派の僧侶となった。型破りな言動で知られ、庶民にも親しまれた。その生涯にまつわる様々な説話から、江戸時代には「一休咄(いっきゅうばなし)」という説話集が作られ、頓知(とんち)で有名になった。代々の住職が作る「一休寺納豆」という珍しい納豆は、お土産としても人気がある。

十輪寺(じゅうりんじ)

京都市西京区大原野にある十輪寺(じゅうりんじ、通称:なりひら寺)は、文徳天皇(もんとくてんのう)が染殿皇(そめどののきさき)の安産祈願のために850年(嘉祥3年)に建立したのが始まりとされる寺院。平安時代の歌人で「伊勢物語」の主人公のモデルともいわれる在原業平(ありわらのなりひら)が晩年を過ごした隠棲地(いんせいち)として知られている。本尊の延命地蔵菩薩「腹帯地蔵(はらおびじぞう)」は、安産・子授け祈願の寺として知られている。応仁の乱で焼失したが、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に再興された。高廊下、茶室、御殿に囲まれた「三方普感(さんぽうふかん)の庭」や、樹齢約200年の枝垂れ桜(通称:なりひら桜)、また、鳳輦型(ほうれんがた、おみこしのような形)という屋根が特徴的な本堂が見どころ。
※隠棲地とは、世俗を離れて静かに暮らすための場所、またはその生活そのものを指す。

聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)

京都市左京区にある聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)は、本山修験宗の総本山であり、皇族や摂関家が門主を務めた格式高い寺院。修験道(しゅげんどう)の開祖である飛鳥時代の呪術者・役行者(えんのぎょうじゃ)を祀り、「山伏の寺」としても知られている。「聖護院八ツ橋」、「聖護院大根」など、和菓子や京野菜の名前にも使われている。
※修験道とは、日本古来の山岳信仰に仏教(特に密教)や道教、陰陽道などが習合した日本独自の宗教。厳しい山岳修行によって霊力を得て、衆生済度を目指すことを目的とする。修験道の実践者を「山伏」と呼ぶ。

相国寺(しょうこくじ)

1392年(明徳3年)に完成した京都市上京区にある相国寺(しょうこくじ)は、鹿苑寺(ろくおんじ、金閣寺)や慈照寺(じしょうじ、銀閣寺)を山外塔頭(たっちゅう)として持つ京都五山第二位に位置づけられる寺院。豊臣秀頼が1596~1615年(慶長年間)に再建した法堂(はっとう)は、現存する最古かつ最大級の法堂建築で、天井に描かれた狩野光信筆の「蟠龍図(ばんりゅうず)」は「鳴き龍」として知られる。建仁寺(けんにんじ)は京都五山第三位の寺院。
※「蟠龍図(ばんりゅうず)」とは、一般的に天井に描かれた龍の画を指し、特に禅宗寺院の法堂(はっとう)の天井に多く見られる。蟠龍(ばんりゅう)とは、天に昇る前の、地上にうずくまっている状態の龍のことで、仏法を守護する存在とされる。手を叩くと龍が鳴いているように聞こえることから、「鳴き龍」と呼ばれることもある。

勝持寺(しょうじじ)

京都市西京区大原野にある勝持寺(しょうじじ)は、679年(白鳳8年)に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建し、791年(延暦10年)に桓武天皇の勅により、最澄(伝教大師)が再建した天台宗の寺院。一時は49もの塔頭が建ち並ぶ大寺院であったが、応仁の乱でほとんどの伽藍が焼失した。その中で兵火を免れた「仁王門」は寺内で最も古い建物。鎌倉時代の作という重要文化財に指定されている本尊の「薬師如来像」は、左手の薬壺から薬を摘み取る珍しい姿をしている。
※役行者とは、飛鳥時代の呪術者で、日本古来の自然崇拝と仏教などが習合した「修験道」の開祖とされている。本名は役小角(えんのおづぬ)といい、「続日本紀」などにも登場し、呪術で藤原鎌足の病を治したなど数々の伝説を残している。

常寂光寺(じょうじゃっこうじ)

京都市右京区の小倉山の中腹にある常寂光寺(じょうじゃっこうじ)は、平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭(しぐれてい)」があったと伝わる地に、1596年(文禄5年)に開創された日蓮宗の寺院。小倉山の美しい風景が仏教用語「常寂光土(じょうじゃっこうど)」を思わせることから、この寺号が付けられた。藤原定家が「時雨亭」で小倉百人一首の編纂をしたことから「百人一首ゆかりの地」としても知られている。
※常寂光土とは、仏教における最高の理想郷で、仏の真理が具現化した世界のこと。

正寿院(しょうじゅいん)

1200年(正治2年)に建てられた宇治田原町の正寿院(しょうじゅいん、風鈴寺)で6月から9月にかけて開催される「風鈴まつり」では、2000個以上の風鈴が境内を彩り、涼しげな音色を響かせる。花と日本の風景をテーマにした160枚の天井画や、ハート型の窓「猪目窓(いのめまど)」が人気。

正法寺(しょうぼうじ)

京都市西京区にある正法寺(しょうぼうじ)は、全国各地から集められた巨岩が600トンにも及ぶことから通称「石の寺」と呼ばれている。東山を借景とした枯山水庭園「宝生苑 (ほうしょうえん)」の庭石が何となく鳥や兎など動物に似ているため「鳥獣の石庭」と呼ばれている。本尊の「三面千手観音」は国の重要文化財に指定されている。

上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)

京都市北区にある上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)は、聖徳太子の創建と伝わる真言宗智山派の寺院。その後、960年(天徳4年)宇多法皇の祈願により寛空(かんぐう)が再興した。応仁の乱後に豊臣秀吉の支援で復興した際、12の支院(塔頭)が境内に建てられたことから「十二坊」と呼ばれた。現在は3院のみが残っている。平安時代の仏師・定朝(じょうちょう)の墓、謡曲「土蜘蛛」の源頼光にまつわる「頼光塚」、阿刀氏(あとし、空海の母)の塔と伝わる五輪塔など、歴史的な文化財を多数所蔵している。

勝林院(しょうりんいん)

京都市左京区大原にある勝林院(しょうりんいん)は、1013年(長和2年)に創建された「天台声明(てんだいしょうみょう)」の聖地として発展してきた天台宗の寺院。天台声明とは、仏典(お経)に旋律をつけた仏教音楽の一種で、唐へ留学した円仁(慈覚大師)が中国の仏教音楽を体系的に学び、天台声明の基礎を築いた。1186年(文治2年)、浄土宗の開祖・法然が天台宗などの諸宗派の学匠たちと論議を行った仏教上の大規模な法論「大原問答」で、法然は、人間が煩悩にまみれていても阿弥陀仏の力に頼る「浄土門」こそが救われる道であると主張し、参加者を感服させたと伝えられている。
※法論とは、仏教の教えについて正誤を争う論争のこと。

青蓮院(しょうれんいん)

京都東山にある青蓮院(しょうれんいん)は、天台宗の門跡寺院で「粟田御所(あわたごしょ)」とも呼ばれている。平安時代末期の1150年(久安6年)に行玄が青蓮坊を京都に移し、その後、鳥羽天皇の皇子・覚快法親王(かくかいほっしんのう)が跡を継いだため門跡寺院としての青蓮院が確立された。日本三不動の一つとされる国宝の「青不動」を安置している2014年に再建された「将軍塚青龍殿(しょうぐんづかせいりゅうでん)」は、京都市街から大阪近郊までを一望できる絶景スポット。
※日本三大不動とは、明王院(和歌山県高野山)の「赤不動」、園城寺(滋賀県大津市)の「黄不動」と青蓮院の「青不動」を指す。
※天台宗三門跡(さんもんぜき)とは、天台宗の皇族や公家の子弟が門主(住職)を務めた、特に格式の高い三つの寺院のことで、三千院門跡、妙法院門跡と青蓮院門跡の三つの寺院を指す。

神光院(じんこういん)

京都市北区にある神光院(じんこういん)は、1217年(建保5年)に創建された真言宗の単立寺院。厄除け大師として信仰を集める本尊の「弘法大師像」は、空海が42歳の時に自ら刻んだものと伝わる。毎年7月21日と土用丑の日に行われる「きゅうり封じ」は、病魔をきゅうりに封じ込めて、無病息災を願ったという秘法に由来する厄除けの祈祷儀式。
※単立寺院とは、多くの寺院が属している「本山」のような特定の宗派や包括宗教法人の傘下に属さず、独立して運営されている寺院のこと。
※「京都三弘法」とは、東寺(教王護国寺)、仁和寺と神光院を指す。

神護寺(じんごじ)

京都市の高雄山中腹に位置する神護寺(じんごじ)は、和気清麻呂が781年(天応元年)に高雄山寺を私寺として建立したこと始まり、空海(弘法大師)も一時住した歴史ある真言宗の古刹。「高雄曼荼羅(たかおまんだら)」として知られる現存最古の国宝「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず)」は、淳和天皇の願いで空海が直接制作に関わったといわれている。
※曼荼羅図とは、密教における仏の悟りの世界や宇宙の真理を、幾何学的な図や仏・菩薩の配置によって視覚的に表現したもの。

真如堂(しんにょどう)

京都東山の大文字山の麓にある真如堂(しんにょどう)は、正式名称を「真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)」いい、平安時代の984年(永観2年)に円仁(慈覚大師)作の本尊・阿弥陀如来立像を比叡山から東三条女院の離宮に移したのが始まりと伝わる寺院。応仁の乱により伽藍の多くが焼失し、その後移転を繰り返したが、1693年(元禄6年)、東山天皇の勅により現在の地に再建された。「うなずきの弥陀」という呼び名の由来は、円仁が阿弥陀如来の白毫(びゃくごう、額の真ん中の白い毛)を入れようとした際に、如来が首を振って拒否したが、「女性を救ってください」と頼むと三度うなずいたという伝説による。年に一度の11月15日に開扉される。

随心院(ずいしんいん)

京都市山科区の随心院(ずいしんいん)は、991年(正暦2年)に創建された真言宗善通寺派の大本山。応仁の兵火で焼失したが、1599年(慶長4年)に再建された。3月最終日曜日に行われる小野小町と深草少将の伝説を題材にした「はねず踊り」が有名。小野小町は平安時代前期に活躍した歌人で、「六歌仙」や「三十六歌仙」のひとりに数えられる。また、絶世の美女として多くの伝説や説話が残されている。

清凉寺(せいりょうじ)

京都市右京区にある「嵯峨釈迦堂」の通称で知られる清凉寺(せいりょうじ)は、平安貴族・源融(みなもとのとおる、嵯峨天皇の子)の山荘「棲霞観(せいかかん)」跡に創建された寺院。「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルは複数おり、源融はその中の一人。国宝の本尊・釈迦如来像(国宝)は、釈尊(しゃくそん、釈迦)37歳の姿を彫った「清凉寺式」と呼ばれる仏像で、髪が縄状で衣が流れるような流水紋様の衣をまとっているのが特徴。

赤山禅院(せきざんぜんいん)

京都御所の東北に位置する赤山禅院(せきざんぜんいん)は、888年(仁和4年)、円仁(えんにん、慈覚大師)の遺命により、弟子の安慧(あんね)が建立した寺院。本殿の手前には神社のような拝殿があるなど、神道と仏教が融合した「神仏習合」の雰囲気を感じられる。また、拝殿の屋根上の「御幣(へいぐし)」と「神楽鈴(かぐらすず)」を持った猿の像「神猿(まさる、魔が去る)」は、かつて夜な夜な悪さをしたため、逃げ出さないように金網に入れられたという伝承がある。天台宗の僧侶が約7年かけて比叡山の山々を歩き巡り、260箇所以上の礼拝所を巡拝する最も過酷な荒行「千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)」の「赤山苦行」の場として知られる。

禅林寺は(ぜんりんじ)

「哲学の道」にも近い京都市左京区にある禅林寺(ぜんりんじ)は、浄土宗西山禅林寺派の総本山で、中興の祖・永観律師(えいかんりっし)の名前にちなんで「永観堂(えいかんどう)」と呼ばれることが多い。振り返った珍しい姿の阿弥陀如来像「みかえり阿弥陀」が有名で、秋になると約3000本の紅葉が境内を彩り、多くの観光客で賑わう。
※「中興(ちゅうこう)」とは、一度衰退したり途絶えたりしたものを再興すること、またはその人物を指す。

双林院(そうりんいん)

京都市山科区にある双林院(そうりんいん)は、毘沙門堂の塔頭寺院(子院)として江戸時代の1665年(寛文5年)に創建された。本尊の象の頭と人間の体を持つ秘仏「大聖歓喜天(だいしょうかんきてん)」は、商売繁盛、縁結び、子授け、夫婦和合、財運、健康など、あらゆる現世利益の願いを叶えるとされ、「山科聖天(やましなしょうてん)」として広く信仰されている。双林院の不動明王像は、1571年(元亀2年)の織田信長による比叡山焼き討ちで損傷した仏像の部材によって作られた。

大覚寺 (だいかくじ)

嵯峨天皇の離宮「嵯峨院」を876年(貞観18年)に寺院として創建された真言宗大覚寺派の総本山。嵯峨天皇が中国の洞庭湖を模して造営したと伝えられる日本最古の庭池「大沢池(おおさわのいけ)」は、日本三大名月鑑賞地のひとつで、中秋の名月の頃には「観月の夕べ」が開催される。また、嵯峨天皇が大沢池の菊を器に生けたことが生け花(華道)の始まり言われている。
※日本三大月鑑賞地は、大沢池(京都)、猿沢池(奈良)、石山寺(滋賀)。

大徳寺(だいとくじ)

鎌倉時代末期の1315年(正和4年)に創建された京都市北区にある大徳寺(だいとくじ)は、臨済宗の僧・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)によって開創された臨済宗大本山で京都を代表する禅寺。代表的な塔頭(たっちゅう)に、豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために建立した「総見院(そうけんいん)」がある。また、織田信長が創建し豊臣秀吉が増築したとされる苔と紅葉が美しい「黄梅院(こうばいいん)」には、千利休が作庭した「直中庭(じきちゅうてい)」がある。後に花園法皇が宗峰妙超の影響を受け妙心寺を開くことになる。
※塔頭とは、本山の一部を形成する本山の内部に創設された寺院で、お墓などを意味する。

知恩院(ちおんいん)

京都市東山区にある浄土宗の総本山・知恩院(ちおんいん)は、法然上人(ほうねんしょうにん)が晩年を過ごした場所に建立された寺院。高さ24mの日本最大級の木造二重門「三門」や日本三大梵鐘(さんぼんしょう)のひとつ「大鐘楼(だいしょうろう)」が有名で、毎年大晦日に多くの人が訪れる「除夜の鐘」は京都の風物詩となっている。
※日本三大梵鐘とは、知恩院(京都府)、東大寺(奈良県)、そして方広寺(京都府)と言われる。

知恩寺(ちおんじ)

宮津市にある智恩寺(ちおんじ)は、天橋立(あまのはしだて)にある文殊菩薩(もんじゅぼさつ)を祀る寺院。知恵を授ける「知恵の文殊」として学業成就や入試必勝、商売繁盛などのご利益があるとされている。
※知恩院は法然上人を宗祖とする浄土宗の総本山。

頂法寺(ちょうほうじ)

京都市中京区にある頂法寺(ちょうほうじ)は、聖徳太子が587年(用明天皇2年)に創建したと伝えられる天台宗の寺院で、華道家元・池坊(いけのぼう)が代々住職を務める「いけばな発祥の地」としても知られている。本堂が六角形であることから六角堂(ろっかくどう)として親しまれている。

月輪寺(つきのわでら)

京都市右京区の愛宕山中腹にある月輪寺(つきのわでら)は、704年(大宝4年)に泰澄大師(たいちょう)が開山したと伝えられ、その後、781年(天応元年)に慶俊僧都(けいしゅんそうず)が再興した歴史ある天台宗の山岳寺院。本尊の国指定の重要文化財・阿弥陀如来坐像や、坂上田村麻呂作の「十一面千手千眼観世音菩薩」など、宝物館には平安時代の仏像など多くの重要文化財が収蔵されている。

天龍寺(てんりゅうじ)

後醍醐天皇の菩提寺である京都嵐山にある天龍寺(てんりゅうじ)は、1339年(暦応2年)に足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した臨済宗の大本山。夢窓疎石が手掛けた嵐山を借景にした国の特別名勝「曹源池庭園(そうげんちていえん)」は、創建当初から残る日本最古の史跡・特別名勝に指定された池泉回遊式庭園。また、天井に描かれた加山又造作の「雲龍図」は、どこから見上げても龍が自分を見ているような「八方睨み」が特徴。創建当初は、建立資金を確保するために中国の元と間で「天龍寺船貿易」が1342年(興国3年・康永元年)から数回にわたり行われた。1994年に「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録された。
※京都五山は、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の五寺院を指す。

東寺(とうじ)

京都駅にも近い京都府京都市南区九条にある東寺は、正式名称を教王護国寺(きょうおうごこくじ)といい、796年(延暦15年)桓武天皇が都の鎮護のために創建し、その後、嵯峨天皇が密教を学んだ空海(弘法大師)に東寺の管理・造営を命じた。空海は東寺を真言密教の根本道場とし、講堂や五重塔の建設など大規模な造営を進めた。東寺は、平安遷都に建立された官寺(国立の寺院)で、平安京の遺構として唯一現存しており、1994年に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。毎月21日に開かれる「弘法さん」の呼び名で親しまれている「弘法市」は、空海の命日(旧暦3月21日)にちなんで始まった縁日で、古着や骨董品、植木、食品など、多種多様な露店が並び、多くの人々が参拝や買い物を楽しんでいる。

成相寺(なりあいじ)

天橋立を一望できる景勝地に位置する成相寺(なりあいじ)は、704年に文武天皇の勅願により真応上人が創建したと伝えられる古刹(こさつ)で、本尊の聖観世音菩薩は「身代わり観音」として、また、お参りすると心身ともに美しくなるとされる「美人観音」としても信仰されている。

南禅寺(なんぜんじ)

石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」のセリフで有名な京都市左京区にある南禅寺(なんぜんじ)は、1291年に亀山法皇が無関普門禅師を開山に迎えて創建した臨済宗南禅寺派の総本山。高さ約22メートルの「天下竜門」とも呼ばれる重要文化財で日本三大門のひとつ「三門(さんもん)」は、1628年(寛永5年)に藤堂高虎が大阪夏の陣で亡くなった家来の供養のために寄進したもの。京都五山および鎌倉五山の上に置かれる「五山之上(ござんのうえ)」とされ、五山文学の中心地として禅界最高の格式をもつ寺院。琵琶湖疏水の水路橋でレンガ造りのアーチが特徴的な「水路閣(すいろかく)」も有名なスポット。

西本願寺(にしほんがんじ)

西本願寺(にしほんがじんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山であり、正式名称は「龍谷山本願寺」という。西本願寺は、親鸞聖人の末娘である覚信尼が1272年に建てた「大谷廟堂」が始まりで、その後、第3代覚如上人が「本願寺」と公称した。1591年(天正19年)、豊臣秀吉が寺地を寄進したことにより現在の場所に移った。境内には、現存する最古の能舞台である「北能舞台」、豪華絢爛な装飾が施された「唐門」、「京の三名閣」の一つに数えられる国宝の楼閣建築で豊臣秀吉の聚楽第の遺構とも伝わる「飛雲閣」などがある。1994年には「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されている。

二尊院(にそんいん)

京都市右京区嵯峨にある天台宗の寺院・二尊院(にそんいん)は、嵯峨天皇の勅願により、834~848年(承和年間)に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開創されたと伝えられる。正式名称を「小倉山二尊教院華臺寺(おぐらやまにそんきょういんけだいじ)」といい、釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を本尊とすることから二尊院と呼ばれた。また、「小倉あん」発祥の地としても知られ、平安時代に空海が中国から持ち帰った小豆を嵯峨の菓子職人・和泉和三郎が小倉山麓で栽培し、砂糖で煮詰めて朝廷に献上したのが始まりと伝えられている。

毘沙門堂(びしゃもんどう)

天台宗の京都五箇室門跡のひとつ、京都市山科区の毘沙門堂(びしゃもんどう)は、703年(大宝3年)に文武天皇の勅願によって創建された天台宗の寺院。七福神のひとり「毘沙門天」を祀り、古くから「毘沙門さん」として親しまれてきた寺院。毘沙門天(多聞天)は、仏教において仏法を護る四天王のひとりとして、北方を守護する役割を担っている。また、七福神のひとり「福をもたらす神」でもある。
※門跡寺院(もんぜきじいん)とは、皇室一門や公家が出家して住職を務める寺院のことで、皇室と関わりのある格式高い寺院をいう。京都五箇室門跡は、妙法院門跡、三千院門跡、青蓮院門跡、曼殊院門跡、毘沙門堂門跡の天台宗の五寺を指す。

平野神社(ひらのじんじゃ)

京都市北区にある平野神社は、平安京遷都の際に平城京から遷座されたと伝えられる。江戸時代に庶民に開放されて以来、 約60種・約400本の桜が彩る京都でも指折りの美しさを誇る桜の名所で知られている。本殿に見られる独特な建築様式の「平野造(ひらのづくり)」は、春日造の社殿を2棟連結し、2殿ずつが「合の間」で繋がった構造で、全体で4殿2棟から構成されている。この形式は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」とも呼ばれる。

補陀洛寺(ふだらくじ)

京都市左京区にある補陀洛寺(ふだらくじ、通称:小町寺)」は、959年(天徳3年)に清少納言の曾祖父にあたる清原深養父(きよはらのふかやぶ)によって創建された寺院で、一度は廃寺となっていたものを小野小町を弔う目的でこの地に再建されたと伝えられている。本堂には、小町が90歳の頃の姿と伝わる「小町老衰像(こまちろうすいぞう)」が安置されている。また、境内には小町の遺骸からススキが生えたいう伝説「なきがらから生えたススキ」や「百夜通い」伝説の深草少将の供養塔などがある。「百夜通い」伝説とは、小町を愛した深草少将が「百日欠かさず通い続ければ結婚を認める」と小町から告げられ、その言葉を信じて毎晩通い続けたが、最後の夜に大雪に見舞われ、その寒さのため道中で凍死してしまい、願いが叶わぬまま命を落としたという悲しい物語。深草少将のモデルは、小町と同じく六歌仙の一人・僧正遍昭(そうじょうへんじょう)ではないかと言われている。百人一首:「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」

芬陀院(ふんだいん)

京都市東山区にある芬陀院(ふんだいん)は、京都五山の第四位・東福寺の塔頭寺院のひとつで、水墨画で有名な雪舟等楊禅師により作られた庭園があることから「雪舟寺」(せっしゅうでら)の愛称でも知られる。鎌倉時代後期に当時の関白・一条内経(またはその息子・一条経通)により創建されたが、現在の建物は1899年(明治32年)に改築されたもの。

法観寺(ほうかんじ)

京都市東山区にある法観寺(ほうかんじ)は、臨済宗建仁寺派の寺院で、通称「八坂の塔」として知られる。飛鳥時代に聖徳太子が建立したといわれ、1440年に足利義教によって再建された「五重塔」は、重要文化財に指定されている。

宝鏡寺(ほうきょうじ)

宝鏡寺(ほうきょうじ)は、光厳天皇の皇女である華林宮恵厳禅尼(かりんのみやえごんぜんに)が応安年間(1368年~1375年)に創建した、代々皇室の姫君が住職を務めた尼門跡寺院で、歴代の住職の多くが皇女であることから「百々御所(どどのごしょ)」とも呼ばれている。また、「人形寺」としても知られ、御所から贈られた皇女ゆかりの数多くの人形を所蔵しており、春と秋に一般公開される「人形展」や、毎年10月14日には「人形供養祭」が行われる。

方広寺(ほうこうじ)

方広寺(ほうこうじ)は、1586年(天正14年)に豊臣秀吉によって東大寺の大仏を模倣した大仏殿と大仏の建立が始められ、1614年(慶長19年)秀頼によって完成した。梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」の解釈を巡り徳川家康が難癖をつけた「方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)」により「大坂の陣」へと突入、豊臣家は滅亡した。日本三大梵鐘のひとつ。

法金剛院(ほうこんごういん)

京都市右京区にある律宗・法金剛院(ほうこんごういん)は、平安時代初期に右大臣・清原夏野(きよはらのなつの)が建てた山荘が始まりで、1130年(大治5年)再興され、法金剛院と名付けられた。極楽浄土を模した庭園にある日本最古の人工滝「青女の滝」や池に蓮の花が咲き誇る様子は「浄土」を思わせる。

法住寺(ほうじゅうじ)

京都市東山区にある法住寺(ほうじゅうじ)は、後白河法皇が院政を行った御所「法住寺殿」の跡地に建つ後白河法皇ゆかりの寺院。1183年(寿永2年)に起こった木曽義仲の法住寺殿襲撃(法住寺合戦)により殿舎が焼失したが、その合戦で本尊の不動明王が法皇の身代わりになったことから「身代わり不動」と呼ばれている。1192年、法皇が崩御した後、その遺命によりここに葬られた。阿弥陀堂には親鸞聖人自作の「そば食い木像」が安置され、また、境内には赤穂浪士の大石内蔵助が討ち入り前に参拝したと伝えられる「四十七士の像」が安置されている。法住寺は現在、後白河天皇法住寺陵(ごしらかわてんのうほうじゅうじのみささぎ)として宮内庁が管理している。

宝泉院(ほうせんいん)

京都市左京区大原にある宝泉院(ほうせんいん)は、「天台声明(てんだいしょうみょう)」の根本道場として創建された勝林院(しょうりんいん)の塔頭(たっちゅう)として平安時代末期に創建されたと伝わる寺院。書院の柱や鴨居を額(がく)に見立て、その空間から絵画のように鑑賞する「額縁庭園」や、近江富士(三上山)の形をしている樹齢約700年の天然記念物「五葉松」が見どころ。また、関ヶ原の戦いの前哨戦として知られる「伏見城の戦い」において、石田三成の攻撃に落城した鳥居元忠をはじめとする徳川方の武士たちが自刃した際に血で染まった廊下の板を「血天井」としたのは、武士たちの供養と、今後二度と誰にも踏まれないためと言われている。
※天台声明とは、仏典(お経)に旋律をつけた仏教音楽の一種で、唐へ留学した円仁(慈覚大師)が中国の仏教音楽を体系的に学び、天台声明の基礎を築いた。

二尊院(にそんいん)

京都市右京区の小倉山の麓にある二尊院(にそんいん)は、平安時代初期の承和年間(834年〜848年)に嵯峨天皇の勅願により円仁(慈覚大師)が創建した天台宗の寺院。正式名称は「二尊教院華臺寺(にそんきょういんけだいじ)」という。本尊に「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二尊を祀っているのが名前の由来となっている。これらの仏像は、「現世と来世」の人生を象徴しており、極楽往生へ導いてくれる。「小倉あん」発祥の地としても知られ、平安時代に空海が中国から持ち帰った小豆を嵯峨の菓子職人・和泉和三郎が小倉山麓で栽培し、砂糖で煮詰めて朝廷に献上したのが始まりと伝えられている。また、総門は、伏見城から移築された「薬医門」と言われている。

松尾寺(まつのおでら)

京都府舞鶴市の青葉山の中腹にある松尾寺(まつのおでら)は、708年(和銅元年)に創建された西国三十三箇所第29番札所の寺院。毎年5月8日に奉納される「仏舞(ほとけまい)」は、仏像や菩薩、如来などに扮した舞手が雅楽に合わせて舞う行事。

曼殊院(まんしゅいん)

曼殊院(まんしゅいん)は、平安時代初期に天台宗の開祖・最澄によって比叡山に創建されたのが始まりとされ、その後、1656年(明暦2年)に桂離宮を創始した八条宮智仁親王の第二皇子・良尚法親王(りょうしょうほうしんのう)によって現在の場所に移転された。
※京都五箇室門跡とは、皇族や摂関家出身者が住職を務める格式の高い寺院のことで、妙法院門跡、三千院門跡、青蓮院門跡、毘沙門堂門跡、曼殊院門跡の5つを指す。

万寿寺(まんじゅじ)

京都五山の第五位に数えられた万寿寺(まんじゅじ)は、建立当初は現在の京都市下京区にあったが、1573~1592年頃にに東福寺の塔頭(たっちゅう)として第四位の東福寺に移転した。現在も東福寺の敷地内にあるが、一般公開はされていない。
※塔頭(たっちゅう)とは、大きな寺院の敷地内にある個別の小さな寺院のこと。

壬生寺(みぶでら)

京都市中京区にある壬生寺(みぶでら)は、991年(正暦2年)に快賢僧都(かいけんそうず)が母の菩提を弔うために創建した律宗寺院。本尊の「延命地蔵菩薩」は、厄除け・開運の寺として庶民に親しまれている。新選組ゆかりの寺としても知られ、境内の「壬生塚」には近藤勇の遺髪塔や、芹沢鴨、奥沢栄助などの新選組隊士の墓塔がある。また、700年以上の伝統を持つ無言の仮面劇「壬生大念佛狂言」も有名で、重要無形民俗文化財に指定されている。

妙心寺(みょうしんじ)

1337年(建武4年)に創建された京都市右京区の妙心寺(みょうしんじ)は、花園法皇の離宮が禅寺に改められたのが始まり。全国に3,400以上ある臨済宗妙心寺派の大本山で、日本最大の禅寺のひとつ。広大な敷地には46の塔頭寺院が立ち並び、まるでひとつの街のようになっている。狩野探幽(かのうたんゆう)が8年の歳月をかけて描いた「雲龍図」が圧巻で、天井一面に描かれた龍は、見る角度によって表情を変えるように見えるため「八方睨みの龍」とも呼ばれている。
※狩野 探幽(かのう たんゆう 1602~1674年)は、江戸時代初期の狩野派(江戸狩野)の絵師。

妙法院(みょうほういん)

京都市東山区にある妙法院(みょうほういん)は、平安時代初期の782年~806年頃に最澄が比叡山に開いた坊が起源とされ天台宗の寺院。後白河法皇の庇護を受けて以降、皇族出身者が住職を務める門跡寺院として、特別な地位を占めるようになった。桃山時代の造営で国宝の「庫裏(くり)」は、豊臣秀吉が大仏殿の完成を記念して方広寺で「千僧供養」を行った際に僧侶たちの食事を作るための台所として建てられた。
※庫裏(くり)とは、もともとは寺院の台所を指したが、現代では主に住職とその家族が住む場所、または台所と居住空間を兼ねた寺院の建物のことをいう。
※天台宗三門跡は、青蓮院、三千院と妙法院。

八坂庚申堂(やさかこうしんどう)

京都市東山区にある八坂庚申堂(やさかこうしんどう、正式名称は金剛寺)は、960年(天徳4年)に浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)によって創建された日本最古の「庚申信仰(こうしんしんこう)」の霊場。庚申信仰は、中国の道教に基づく民間信仰で、日本の仏教や神道などと結びつき庶民に大流行した。60日ごとに巡ってくる「庚申(かのえさる)」の日の夜に徹夜をする「庚申待(こうしんまち)」をして病気平癒、健康長寿を願う習俗で、その記念に石塔「庚申塔(こうしんとう)」が建てられた。 庚申塔の猿は、庚申信仰の本尊である「青面金剛」のお使いで、特に「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が多く彫られている。
※日本三庚申は、四天王寺庚申堂(大坂)、浅入谷庚申堂(東京、現在は現在は小野照崎神社の境内に祀られている)と八坂庚申堂(京都)を指す。

養源院(ようげんいん)

三十三間堂にも近い京都市東山区にある養源院(ようげんいん)は、1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々、長女)が父・浅井長政の菩提を弔うために創建した寺。その後、1621年(元和7年)に徳川秀忠夫人・崇源院(お江、三女)が伏見城の遺構を移して再建した。伏見城の落城時に自刃した武将たちの血で汚れた床板を天井板として移築した「血天井」や、俵屋宗達(たわらやそうたつ)の襖絵「松図」や白象、唐獅子、麒麟を描いた「杉戸絵」が有名。

善峯寺(よしみねでら)

京都市西京区にある善峯寺(よしみねでら)は、平安時代中期の1029年(長元2年)に源算上人(げんさんしょうにん)が自作の千手観音を小堂に安置したのが始まりで、「善峯寺」という寺号は、1192年(建久3年)に後鳥羽天皇から下賜された。応仁の乱で大半の伽藍が焼失したが、徳川五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)が「大檀那(おおだんな)」として、鐘楼や観音堂など多くの建物の復興を支援した。樹齢600年以上と伝わる「遊龍の松」でも有名。
※大檀那とは、主に寺院の熱心な信者を意味する言葉で、多額の寄付や布施を行う有力な檀家を指したが、転じて家の主人や顧客(得意客)を指す敬称としても使われるようになった。

来迎院(らいごういん)

京都に複数存在する来迎院(らいごういん)で代表的なのは、京都市左京区大原の来迎院と京都市東山区の泉涌寺塔頭の来迎院の2つ。
大原来迎院は、円仁(慈覚大師)が創建し、その後、良忍上人が再興して「魚山声明(ぎょざんしょうみょう)」を大成した天台宗の寺院。大原魚山とは、京都大原にある天台宗の寺院群の総称、または天台宗の仏教音楽である「天台声明(てんだいしょうみょう)」の聖地を指す言葉。「魚山」は中国山東省にあった地名で、平安時代、唐に留学した円仁(慈覚大師)が仏教音楽を学んだ場所。
一方、泉涌寺塔頭の来迎院は、空海(弘法大師)が唐で感得した三宝荒神を祀ったのが始まりとされる真言宗の寺院で、空海作とも伝わる「三宝荒神坐像(さんぼうこうじんざぞう)」は国の重要文化財に指定されている。また、浪人時代の「大石内蔵助」が建立した茶室「含翠軒(がんすいけん)」が残っており、赤穂浪士の物語ゆかりの地として知られている。

龍安寺(りょうあんじ)

京都市右京区の龍安寺(りょうあんじ)は、1450年に細川勝元が創建した臨済宗妙心寺派の禅寺。白砂と15個の石で構成されたシンプルな枯山水庭園「石庭(せきてい)」や、徳川光圀が寄進したとされるつくばい「吾唯足知(われただたるをしる)」が有名。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
※「つくばい」とは、茶室の前に置かれた手水鉢で、龍安寺のつくばいには、「五」「隹」「矢」「疋」の文字が配置されており、これらを組み合わせると「吾唯足知(われただ足るを知る)」という禅の言葉になる。「足る=足りる」とは、現状に満足するということ。

霊山観音(りょうぜんかんのん)

高台寺にも近い京都市東山区にある霊山観音(りょうぜんかんのん)は、第二次世界大戦の戦没者や戦争犠牲者を追悼するために1955年(昭和30年)に建立された仏教施設。高さ24メートルの「白衣観音坐像」が特徴の寺院。

鹿苑寺(ろくおんじ)

「金閣寺」として知られる鹿苑寺(ろくおんじ)は、元々は鎌倉時代に西園寺公経の別荘として建てられたのが始まりで、足利義満が譲り受け「北山殿」として大改修を行い、1397年(応永4年)に完成した。義満の死後、遺言により寺院となり鹿苑寺(ろくおんじ)と名付けられた。1950年に放火により焼失したが、1955年に再建され現在の姿となった。

六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)

京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、平安京の三大葬送地の一つで東の墓所「鳥辺野(とりべの)」への入口に位置したため、現世と冥界の境目と信じられてきた寺院。通称「六道さん」として親しまれ、お盆の精霊迎え「六道まいり」が有名。
※三大葬送地は、鳥辺野(とりべの、裕福な人や貴族)、化野(あだしの、貧しい庶民)、蓮台野(れんだいの、皇族や貴族)の3つで、それぞれ身分により振り分けられた。「鳥辺野」という名前の由来は、遺体を鳥が食べやすいように山の枝に掛けて風葬にしたことからという説がある。

六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)

京都市東山区にある六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は、951年(天暦5年)に空也上人(くうやしょうにん)によって開創された真言宗智山派の寺院。弁財天を祀る銭洗弁財天や、回すとひとつだけ願い事を叶えてくれると言われる「一願石(いちがんせき)」など、ご利益スポットとして人気がある。




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